涼宮ハルヒの憂鬱 第12話 「ライブアライブ」

ここには書いて来なかったが、ここ三ヶ月はこのアニメのために存在したと言って過言ではない。各話すべて三回は見直し、文庫はすべて読み、ネット上のレビュー、感想サイトを漁りまくっていた。今回の話をもって時系列的最終回が終わったことで思ったことを書いてみる。ちょっとビジネス寄り。

  1. アニメ放映の飽和がもはや数年続いているなかで、作品を売るには特徴を早い時期に打ち出さねばならない。朝比奈みくるの冒険を1話に置き、作画と演出が只者ではないことを打ち出し、エンディングのダンスシーンはトゥーンレンダリングかと疑われるほど、動画のクオリティをアピールした。(インパクト)
  1. もはやアニメは原作ファンに関連商品を売りつけるための販促物である。その上で更なる消費を呼ぶために、原作では早い段階で収束する物語を再構成、話数入れ替えにより興味の持続を心がけた。(消費動向の長期化を確保)
  1. 最近の原作付きアニメの不満は原作レイプと表現されるほどの改変にあったが、話数入れ替えと、特徴的なモノローグをそのまま使うという、半ば主人公の朗読ともとれる形式を使いアニメ化への違和感を減衰させた。(既存読者の囲い込み)
  1. 関連商品の発売タイミングが戦略的だ。今のところCDだけだがOP・EDは放送開始から暫くたってから、少なくとも視聴者が数回聞いてから。逆に12話に放送と同週に挿入歌は発売されている。これは盛り上がりの波が後半へ行くほど高くなる事を予想し、また演出して来たがためだ。(消費動向の創出)

結論は出せないが、消費者、作者、すべての方面によい結果をもたらそうとする気遣いがこの作品では感じられる。
近江商人の家訓に「三方よし」というものがある。売り手買い手そして世間にもよい商売を心がけよというものだ。涼宮ハルヒの憂鬱は過剰な生産と、クオリティの低下でアニメに倦みかけた世間に、まだこういう力があるよと呼びかける作品であると思いたい。

以下追加
それ以外に演奏シーンでの演出上で気づいた点を、

  • 雨が降り出すことによって、集客への不自然さをまぎらわした。情報源を多重に持つ小泉でも一曲目には間に合わずにいる中で、2〜300人の観客が最初からいる状態に説得力をもたせた。さらにのちのハルヒの言い訳?シーンへの切り替え時に後日だと解りやすくする演出への踏み台にした。
  • バンドの演奏中のカメラ効果。舞台に出てきて演奏開始するまでは引いたカメラで、演奏中は徐々にアップに移行、ついにはほぼ顔だけ、ギターだけになった。全体を写すときも横からのアングルを多くし、画面密度を上げた。実際のライブでも舞台の広さは、演奏への集中により印象を変える。そのことを視聴者の視点=画面として演出した。
  • モブキャラクターの演技、会話によりSOS団員の学校内での認知度を表した。登場シーン時のモブキャラクターがステージ近くでは「なんで違う人がでてきたの?」という演技を、キョンの後ろの方では「あれ涼宮じゃね?」とリアクションさせている。ただの記号としてでなく世界を現す出演者としてモブを使い切っていた。
  • クラウザーさんマジ外道、その他細かいところは2ch等で指摘されたので放置。